友人が、少し早いけれど退職したというので
会いに行ってきました。
彼女は今も、いわき市在住です。
震災から7年、彼女の口から出る言葉が
やっと「震災が過去の事」になり始めているように思いました。
「あの時私たちも、被災者だったんだよね~
ものがなくて困ってますって言えば、何とかなったのかもしれないのに
市長とかが下手だったんだよね~」
「ん?
あの時、最初になんて言ったか、忘れちゃった?
ここの人たち、みんな、おんなじこと言ったんだよ。
多分、市長も同じこと言ったんだと思うよ。」
いわきはあの時、物資が北に行ってしまって、
どのお店も営業ができないほど 何もなかったのです。
「店をあけろ」と騒いだ人に
空っぽの店内を見せたという話があります。
水が出ない時期が、ひと月以上の場所もたくさんありました。
利用できるようになった隣町のコインランドリーに夜中も並んで
「草木も眠る丑三つ時に、私、お化けと仲良く洗濯したの~」
と、笑って話してくれた友人がいました。
でもね。
あの時、そういう「困ったこと」を話してくれるまでに
お茶を飲み始めてから、2~3時間もかかったんです。
ゆっくり腰を据えて、お茶のお代わりをいただきながら、
ぽつりぽつり、やっと出てくる「困ったこと」。
それも
「今は大丈夫だけどね」
って、ことだけ少しずつです。
私がいわきに駆け付けたのは
震災から2か月もたった後の2011年5月でした。
連絡をとれた人たちが一番に言ったことは、おんなじセリフ。
「もっと大変なところが北のほうにあるから・・・
首都圏も計画停電とか、大変でしょう?」
みんなが口をそろえてそう言ったんです。
私にしてみれば
「ほんの数時間の、
準備ができる計画停電なんて、なんてことない!」
って感じなのにね。
市長の下手でも何でもない。
本気であの時、いわきにいたみんなが
「大変なのはここじゃない」
と思っていたんです。
今になってやっと、
「自分たちも、たいへんだったよね。」
と言えるようになったんですね。
「地元のテレビ見るのが、まだしんどくてね。
アンテナ高めにして首都圏のテレビ見てるんだ~
県内の話題と、温度差がありすぎてね。
ご近所も、アンテナ高いでしょう。」
彼女が言うので気になって、
その晩宿泊したホテルでNHK福島放送局のニュースを見ました。
「あの時、こんな風だったのがこうなりました。」
というニュース、多いです。
「あの時」がたくさん流れます。正直これは、しんどいです。
ほかの地域にいると「こうなりました」だけが見えるので
「復興したんだな」と見えますが
福島にいると「やっとスタート」と感じます。
「それにね。
自分が大丈夫だったことを、素直によろこべないんだわ。
知ってれば もっとできること、あったのにって思うしね。」
後になって耳に入ることが、
後悔を生んでいるんですよね。
近いところであった、知らなかったことを聞くと
「何かできたはず」って、思ってしまう。
実際には、
あの時みんな精一杯、できることを頑張っていたと思います。
「これね。今、福島で押してる銘柄なんだ。」
彼女が教えてくれて福島米です。
見かけたら、「売れますように」って
祈ってくださいね。
この春、避難者への支援が変わるそうです。
仮設住宅がピーク時の1割までに減って
若い人たちの中に「この機会に定住を決意する」人が増えたと聞きました。
住まいはいわきにして、
機械で水やり、カメラをネットにつないで観察しながら
地元の農地まで、通いで農業をする形も定着しつつあるそうです。
もちろんまだ、立ち入り禁止区域もあります。
「前と同じってわけにはね。」
退職した友人も、新しい生活がはじまりました。
「毎日家にいるもんだから、
猫たちが『なんでいるの?』って、こっち見るんだよね~」
と、笑って話してくれました。
追記です。
コメント欄であずお様と話題になったお米です。
ふるさと納税でやっと見つけました。
いわき市内にはたくさん売っていたのになあ~
こちらは、あずお様の湯本レポートです。
ぜひ、読んでみてくださいね。